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岡本綾子(おかもとあやこ)


広島県安芸津町木谷の生まれ。小学校からソフトボールを始める。
そして、 強豪今治明徳高校に進学する。
同高校卒業後、 大和紡績でソフトボール部の選手として活躍、サウスポーの
剛球エース兼4番バッター。国体優勝の祝勝ハワイ旅行で初めてゴルフ場を見
学したのがゴルフとの出会い。

73年1月に池田CCに入社し、翌年10月に2度目の受験でプロテスト合格。75年
には初優勝を飾り賞金ランクも14位に。米国女子ツアーには81年に合格し、
翌82年には初優勝。85年は持病の腰痛が悪化したが“パパイヤ治療”が功を
奏し見事にカンバック。87年には米国ツアー4勝を挙げ、日本人では初めて
賞金女王に輝く。93年の日本女子オープン優勝を含め、国内44勝、海外18勝。 

各種スポーツ賞の受賞歴も多く、 1983年 に日本プロスポーツ大賞を受賞し
ている。 2005年 度の 世界ゴルフ殿堂 入りも決定した。日本人ゴルファー
の世界ゴルフ殿堂入りは、 2003年 の樋口久子、 2004年 の 青木功 に続い
て史上3人目。
2009 世界陸上Inベルリン








2010 アジア競技大会In中国






村上 幸史 (むらかみゆきふみ)

生年月日: 1979.12.23
出 身:愛媛県越智郡生名村(現・同郡上島町)出身
出身校:今治明徳高等学校 → 日本大学 → スズキ 陸上競技部所属
身 長:185cm 体 重:90kg 血液型:AB型

☆アテネオリンピック・北京オリンピック・ロンドンオリンピック日本代表。
 ※ロンドンオリンピックでは日本選手団主将を務める。
☆2009年ベルリン世界陸上競技選手権大会銅メダリスト
☆2010年アジア競技大会 金メダリスト

ベスト記録 やり投 / 83m95・2012日本選手権記録(日本歴代3位)
      円盤投 / 51m72・2000全日本インカレ記録
     (やり投 / 76m54 1997・ジュニア日本記録)

☆主な戦績

■日本選手権 やり投 12連覇(平成23年度)
■全日本実業団対抗 やり投 8連覇(平成21年度)

■ 1996 第6回アジアジュニア陸上競技選手権大会 インド 12位 62m02
■ 1997 第7回アジアジュニア陸上競技選手権大会 タイ 2位 71m18
■ 1998 第7回世界ジュニア陸上競技選手権大会 フランス 3位 70m72
■ 2001 第21回ユニバーシアード 中国 7位 71m75
■ 2002 第14回アジア競技大会 韓国 2位 78m77
■ 2003 第15回アジア陸上競技選手権大会 フィリピン 2位 77m04
■ 2003 水戸国際 1位 78m98 (2003年度世界ランキング 54 位)
■ 2004 第28回オリンピック競技大会 ギリシャ 予選9位 78m59
■ 2005 第10回世界陸上競技選手権大会 フィンランド 予選13位 68m31
■ 2005 第16回アジア陸上競技選手権大会 韓国 6位 74m65
■ 2006 第15回アジア競技大会 カタール 2位 78m15
■ 2007 第11回世界陸上競技選手権大会 日本 予選10位 77m63
■ 2008 第29回オリンピック競技大会 中国 予選8位 78m21
■ 2009 第12回世界陸上競技選手権大会 ドイツ 3位 82m97
■ 2009 スーパー陸上競技大会 川崎 2位 82m41
■ 2009 全日本実業団対抗選手権 岡山 8連覇達成 79m46
■ 2009 第18回アジア陸上競技選手権大会 中国 初優勝 81m50
■ 2010 スーパー陸上競技大会 川崎 2位 82m52
■ 2010 第16回アジア競技大会 中国 初優勝 83m15
■ 2011 第95回日本陸上競技選手権大会 12連覇 82m75(大会新)
■ 2011 第19回アジア陸上競技選手権大会 神戸 2連覇 83m27(自己新)
■ 2011 第13回世界陸上競技選手権大会 韓国 予選15位 80m19
■ 2012 第96回日本陸上競技選手権大会 2位 83m95(自己新)

☆年次ベスト
やり投
1995年 今治明徳高1 56m60
1996年 今治明徳高2 68m00
1997年 今治明徳高3 76m54 ※ジュニア日本記録※日本高校記録
1998年 日本大1 73m62
1999年 日本大2 71m70 ※愛媛県記録
2000年 日本大3 78m57
2001年 日本大4 80m59 ※日本学生記録※日本歴代3位(当時)
2002年 スズキ 78m77
2003年 スズキ 78m98
2004年 スズキ 81m71
2005年 スズキ 79m79
2006年 スズキ 78m54
2007年 スズキ 79m85
2008年 スズキ 79m71
2009年 スズキ 83m10 ※日本歴代2位(当時)
2010年 スズキ浜松AC 83m15 ※日本歴代2位(当時)
2011年 スズキ浜松AC 83m53 ※日本歴代2位(当時)
2012年 スズキ浜松AC 83m95 ※日本歴代3位

十種競技
1999年 日本大2 6605点 ※愛媛県記録

円盤投
2001年 日本大4 51m72 ※愛媛県記録(円盤投)
2003年 スズキ 50m21

その他砲丸投13m93、ハンマー投47m93の記録を持っている。

 

 

 

 


☆競技経歴

 中学時代は軟式野球部に所属し、愛媛県下では名の知られた強肩の好投手で県下の強豪高校の愛媛県立松山商業高等学校をはじめ、複数の甲子園常連校からの勧誘もあったが、当時の体育教師であった(故)中谷博教頭先生(昭和48年高校総体やり投げ覇者)の目に留まり、やり投で日本一にならないかと勧誘を受ける。自分の力だけで勝負し、結果がすべて自分に返ってくる個人競技に魅力を感じた村上は、全国的な投擲(とうてき)競技の強豪校として知られる今治明徳高等学校(本校)に進学し、陸上競技部に入部。

 1年次は基礎体力を鍛える同校の方針もあって県大会には110mハードルに出場した。2年次の1996年にはめきめきと頭角を現し、インターハイやり投で優勝(記録65m80)。追われる立場となった3年次の1997年インターハイでは、やり投(記録68m06)と円盤投(記録53m28)の2冠を達成した。同年秋には愛媛県東予選手権やり投において76m54のジュニア日本新記録を樹立。この記録は現在も破られていない。

 1998年に日本大学に進学。同年、フランスのアヌシーで開催された第7回世界ジュニア陸上競技選手権大会男子やり投で銅メダルを獲得する。これは日本投擲史上、世界大会初のメダルであった。3年次の2000年に日本選手権やり投で初優勝(以降2010年まで大会11連覇中)。4年次の2001年には第21回ユニバーシアードで7位入賞。日本インカレでは80m59の日本学生新記録を樹立。日本人3人目の80mスローワーとなった。

 2002年スズキに入社。同年の釜山で開催された第14回アジア競技大会アジア大会に左頸骨の疲労骨折の重症をおして出場し銀メダルを獲得。アジア大会後に左頸骨の手術に踏み切ったが、本来の助走速度を活かした投てきができなくなり、しばらく精彩を欠くようになる。しかし、短助走での投てき技術の向上と、足の回復もあって、2004年シーズンには自己記録を81m71にまで伸ばし、アテネオリンピックに初出場(予選落ち)。途中、2006年には自身2度目となる2006年ドーハアジア大会の銀メダルを獲得するも、2005年ヘルシンキ世界選手権、2007年大阪世界選手権、2008年北京オリンピックと世界大会では4大会連続で予選落ちとなり、世界大会決勝進出の目標は果たせないでいた。

 しかし、2009年8月21日、ドイツ・ベルリンで開催された世界陸上競技選手権大会の男子やり投予選で、自己ベストの83m10を出して決勝進出を果たし、8月23日の決勝で2投目で82m97を投げ、3位の銅メダルに輝いた。そして、オリンピックと世界選手権を通じて、男子やり投種目の日本人選手初のメダリストとなった。

 その後、2009年内に開催されたスーパー陸上2009と第18回アジア陸上選手権でもそれぞれ2位、優勝と好成績を残した。12月には日本陸上競技連盟の年間MVP(アスリート・オブ・ザ・イヤー)に選出された。

 2010年広州アジア大会では、決勝の2投目で自己ベストの83m15(日本歴代2位)を出して、アジア大会3度目の出場で初めて金メダルを獲得した。2011年5月、セイコーゴールデングランプリ川崎で国内開催大会での自己ベスト記録(当時)となる82m90で優勝。同年7月10日、神戸総合運動公園ユニバー記念競技場で開催された第19回アジア陸上選手権で自己ベスト記録(当時)となる83m27の投擲で2連覇を達成。8月14日にも愛媛県総合運動公園陸上競技場で開催された国体予選で自己ベスト記録(当時)を83メートル53に伸ばし、9月1日、韓国・大邱での世界陸上競技選手権大会に挑んだが、1投目の80メートル19を出した後、2投目以降に記録を伸ばせずに予選落ちした。

 2012年6月9日、日本選手権で自己ベストの83m95を記録したが、ディーン元気選手がそれを上回る84m03を記録したため、この大会での連覇が12で途切れたが、3大会連続となるロンドンオリンピック日本代表、及び日本選手団主将に選出された。ロンドンオリンピックでは、予選で77m80に終わり、予選敗退となった。

 

第12回 世界陸上選手権大会  帰国報告 
 今治明徳高等学校 副校長 濱元 一馬 (平成21年度記)

 この度、日本陸上競技の歴史に残る偉業を、村上幸史選手が達成してくれました。投擲(とうてき)種目の中で、ハンマー投げの室伏選手に次ぐやり投げでのメダル獲得は、日本陸上界史上初の快挙でした。
 そこで、今大会を終え、私自身が感じたことを少し述べたいと思います。
 インターネット等でご存じの方も多いと思いますが、帰国してまず真っ先にかけられた一言が、「お前にそんな笑顔もあったのか」と言われたことでした。このメダル獲得という偉業に至るまで、村上には本当に厳しく接してきました。記録が伸び悩んだ時期、怪我に悩まされた時期・・・・・・決して平坦な道のりではありませんでした。インターネット上の画面に映されたその時の表情は、これまでの全てを物語っていたように思います。自分自身何の飾りもせず、ただとっさに出てしまった万歳でした。それくらい15年間の思いは大きかったのです。
 本当に凄い偉業を成し遂げてくれたなと思います。そんな中、一つだけ感じたことを、お話しできればと思います。正直、昨年の北京オリンピックで村上は引退かな?と思いました。その時、私は「ご苦労さん」と言っただけで、北京オリンピックをあとにしました。村上は今後どのような道を選ぶのかな と・・・・・・。ところが、冬休みに帰ってきた村上が私に言った言葉は、「先生、もう一度ロンドン目指して頑張ってみたいんです。」でした。その言葉にちょっとびっくりしました。予想だにしていない言葉でした。理由は、「自分の子どもにメダルを掛けてやりたい」と。そして、「子どもに自分の姿を少しでも見せてやりたいんだ」と。その気持ちが、本人の今の姿をつくりました。皆様にもそれぞれ家族がいると思います。家族って大事です。村上もやっと私と同じように家族を持ち、いろんなことで家族を支えていかなければならないという自覚と責任を持つようになりました。子どもがいるということで、何事も我慢ができる。村上は、その一心で「やり一投」に魂を込めて挑んだのだと思います。
 今回の功績は本当に素晴らしかったです。しかし、それ以上に嬉しかったことがあります。それは私の尊敬する日本大学の小山裕三監督が、世界陸上の解説で「濱元先生、15年間ご苦労さん」と、涙ながらに言ってくださったことが一番嬉しかったです。村上のメダル獲得が人生最大最高の喜びではありますが、小山監督をはじめとする人と人との出会いが、こんなにも素晴らしいものであることを改めて悟った瞬間でもありました。日本大学進学後の村上を、本来高校の教諭が指導することはできません。それでも「先生、村上は将来のある選手だから、先生ができれば見てやってください。大学卒業後も、私が責任を持ってみますから、村上が現役を引退するまで指導をお願いします。」と言ってくださったとき、大変嬉しい反面、相当の責任をしょってしまったなと感じました。その小山先生が、村上がメダルを獲得したときに一言「村上、銅メダル獲得おめでとう。今はお前が主役だ。しかし、おまえを影になって支えてくださった方々を、すぐにこの場で100人以上言うことができたらお前は本物だ。素晴らしい人間だ。競技を行っている人は、良いときは良いが、たとえ悪い時でも影になり日向になりその人物を支え続けてくれる。それを忘れてはいけない。」と。その言葉を聞いたとき、自分自身もここではしゃぎすぎていてはいけないと感じました。すべてが終わって御礼に伺ったとき、2人で抱き合って男泣きに泣きました。
 人間は一人では弱いものです。 逆に、多くの人の支えがあれば、ものすごい力を発揮することができます。この世には、故人が残された素晴らしい名言があり、その上、様々な人たちからアドバイスをいただくことができます。ただ、それを聴く姿勢が、今の若者に最も要求されていることであるように感じます。言葉は人間を形成します。そのことを忘れず、これからのジュニアたちに、しっかりと教え諭していきたいと思っています。
 最後に、村上の指導に専念できたのも、ご理解ある今治明徳学園関係者の方々をはじめ、白川校長先生、そして、陸上競技部顧問の青野先生、永井先生の支えがあってこそ達成できた偉業です。また、愛媛県陸上競技連盟、日本陸上競技連盟関係のすべての方々に感謝の気持ちでいっぱいです。人はだれかの支えがなければ生きていくことはできません。これからも「ありがたい」と思う気持ちを持ち続けていきたいと思っています。
 本当にありがとうございました。


※小山裕三(こやま ゆうぞう)・・・・・・日本の陸上競技選手、陸上競技指導者、陸上競技解説者。元砲丸投日本記録保持者。現在日本大学理工学部教授。また日本大学陸上競技部監督を務める。日本大学卒業。

    
   銅メダルオモテ     銅メダルウラ    銅メダル表とリボン

    
  村上幸史選手(今治明徳高等学校職員室にて)         村上幸史選手と白川見敬校長先生
 
 
〔実践報告〕男子やり投げ村上幸史選手との10年間 
  今治明徳高等学校 濱元 一馬(平成16年度記)

 はじめに  

  村上選手は、現在、日本選手権5連覇、全日本実業団対抗2連覇中で、今年のアテネオリンピックにも出
 場を果たした日本男子やり投げの第一人者である。彼と出会って今年でちょうど10年となるが、振り返ると
 村上選手も私も試行錯誤しながら、一歩一歩前進してきた10年であった。
  そして、この10年において最も大きな転機となったのが、村上選手が大学2年の時から、「体幹部をうまく
 使う」ことを意識した投法に取り組んできたことである。今回はこの点を中心に、彼のこれまでの軌跡と今
 後の課題についてまとめた。

 高校時代 〜長所を生かして〜  

  村上選手と出会った当初、まず驚かされたのが、それまでの野球経験によって培われた下半身と地肩の強
 さであった。特にその強靭な下半身を土台とした走力の高さには目を見張るものがあり(高校1年の時には
 110mHで県大会に出場)、助走のスピードを最大限に生かした投てきを目指すことが高校時代の目標とな
 った。また、村上選手は入学当初きゃしゃな体格で、筋肉がつきにくい体質であった(体重は入学時65kg、
 卒業時78kg)ことも考慮して、サーキットトレーニングを中心に据えたスケジュールを組み、全体のバラン
 スを意識しながら基礎体力の向上を図った。さらに、やりを指にかける感覚を養うことを狙って、円盤投げ
 にも取り組んだ。これらのことが実を結び、高校2年のインターハイでやり投げを制することができた。

  今振り返ってみると、高校2年でインターハイに優勝したことにより、追われる者という立場で高校3年を
 迎えたことが、本人の精神的な成長につながったと感じる。練習に対する意識もさらに高いものとなった。
 こうして心身共に充実した状態で高校3年の1年間を過ごし、インターハイではやり投げと円盤投げの2冠を
 達成し、76m54の日本高校記録も樹立した。

 大学時代 〜新たなる挑戦〜  

  村上選手は日本大学に進学し、直接指導にあたる機会は減少することとなった。新しい環境に送り出すに
 あたって、今まで以上に下半身を強化すべく短距離や跳躍種目のメニューに取り組むよう助言した。村上選
 手は大学進学後も記録を伸ばしていたものの、世界を目指す上での目安として目標にしていた80mの壁を越
 えることはなかなかできなかった。

  しかし、大学2年の春に参加した投てき合宿において、大きな飛躍に結び付く指摘を受けた。それまでの
 村上選手のフォームは、野球で投手を経験していた影響から、やりを投げた後に上半身が沈んでしまう傾
 向があった。そのために、やりの初速度は世界トップレベルの選手と比較しても遜色はないものの、中間
 速度において大きく差がついてしまい、結果として飛距離が伸びないという欠点があったのである。この
 指摘をふまえ、村上選手と私はフォーム改造に取り組むことを決意した。新しく目指すフォームのポイン
 トは体幹部の強化にあった。体幹部を強化し、投げた後も胸を張るような投法にすることによって、左肩
 を最後まで残し、やりに角度をつけることで中間速度を上げることが狙いである。そのため、この年の冬
 季練習は体幹部を中心とした筋力トレーニングに励むと共に、新フォームとそれに合わせた助走のチェッ
 クに練習の大半を費やすこととなった。結果は想像以上のものとなった。中間速度が上がっただけでなく、
 投げたやりがこれまでよりもずっと高い軌道を描いていることが実感できたのである。
  翌年の沖縄での記録会において78m59と自己記録を更新し、自信を深めた村上選手は新フォームの定着と
 ともに記録を伸ばし、大学4年の9月に行われた日本学生対抗において念願の80m台を突破し、80m59で優勝
 を果たした。

 社会人時代 〜故障との闘い〜  

  期待とともにスズキ自動車に入社した村上選手を待っていたのは、選手生活で初めてと言ってよい故障
 との闘いであった。大学4年の頃から痛めていた左足の痛みが、実は左足脛骨疲労骨折という重症だったの
 である。先にも述べたように、村上選手の一番の武器は、強靭な下半身から生み出される助走にある。軸
 足となる左足に故障を抱えていては、思うようなトレーニングを行うことはできない。試合に出場しても、
 全助走での投てきは許されない状態で、短助走での、しかも数が限られた中での投てきを余儀なくされた。
 本人の表情にも悔しさが浮かぶ日々が続いた。

  しかし、こうした逆境の中で、2002年に行われたアジア大会では78m77を投げ2位という成績を収めた。
 その言動から社会人としての自覚が感じられるようになったのも、この頃であった。本人には辛い時期だ
 ったかもしれないが、この経験を通して、さらなる精神的な強さを身につけたことは、大きな収穫だった
 ように思われる。故障との闘いに打ち勝った村上選手は、2004年4月25日に行われた愛媛リレーカーニバ
 ルにおいて81m71と自己記録を更新するとともに、同年6月4日の日本選手権でも79m00で5連覇を達成し、
 アテネオリンピック出場が決定した。

 アテネオリンピック 〜経験と課題〜  

  村上選手は、2004年8月25日長年の夢であったオリンピックの舞台に立った。試合直前に、3投全てで声
 をしっかりと出し、全力で腕を振り切るというシンプルな約束を村上選手と交わした。この約束は果たし
 たが、結果は78m59で18位、目標であった決勝進出は果たせなかった。ただ、世界の舞台で、現時点での
 もちうる力の全てを出し尽くした点を私は評価したい。この経験はこれから村上選手が世界を相手に挑戦
 していく過程において、大きな財産になると確信している。

  今後の課題としては、もう一度原点に回帰し下半身を絞り込むことと、そのスピードに負けない投げを
 追求することが挙げられる。最大のポイントは全助走における最後の3歩をいかに投てきに生かすかにあ
 る。この点をクリアできれば、コンスタントに80mを投げることができると同時に、83mという数字も現実
 のものとなるに違いない。

 おわりに  

  こうして10年を振り返ってみると、アテネオリンピックにたどり着くまでに、様々な出来事があったこ
 とを実感するとともに、村上選手や私を支えて下さっている本当に多くの方々に対する感謝の思いで一杯
 である。こうした方々の期待にお応えするためにも、これからも全力で競技に取り組み、村上選手が年齢
 的にも28歳というピークで迎える北京オリンピックを目指していく決意です。
 
 

第53回全日本学生空手道選手権大会
〜矢野 彩(女子形)2年連続の“準優勝”〜
   矢野  彩 (やの さえみ)

  出身校:今治明徳高等学校 → 山梨学院大学
西濃運輸 

 








 第53回全日本学生空手道選手権大会が6月21日、東京・日本武道館で開催された。この大会は個人戦で競われる学生日本一決定戦。この春強化育成クラブに指定された山学大空手道部からは、形の部に男子3人、女子3人が出場した。このうち、矢野 彩(4年 今治明徳)と福田 崇(4年 牛久)の2人が予選でベスト8に入り、決勝トーナメントに進出した。矢野 彩は準々決勝・準決勝を勝ち上がり決勝に進出した。対戦相手は昨年と同じ梶川凛美(関西大)。決勝の演武は、早い動きで技の切れを見せる“動”の梶川、ゆっくりした動きの中で重厚さと迫力を表現した“静”の矢野、まったく対照的な演武となった。演武を終えた2人に対する5人の審判の旗判定は、昨年と全く同じ2−3の僅差判定、矢野は惜しくも優勝ならず2年連続の準優勝となった。
 矢野は準々決勝で「ア―ナン」、準決勝で「チャタンヤラク―」、決勝で「スーパーリンペー」という技を選択した。決勝戦は最初に梶川凛美が演武、小柄な梶川はスピードと切れのある技で“動”を強調した演武を披露した。次いで演武に入った矢野は、一礼して正面に進み、きりっとした表情で持ち前の迫力と力強さで形の美しさを追求した“静”の演武を行った。時に両手をゆっくり大きく広げ、時に鋭く突き、時におなかの底から声を発し、日本武道館を緊張した静寂に包み観衆を魅了した。5人の審判の判定は赤の梶川3、青の矢野2、ほんの僅かな差で優勝は梶川となった。試合後、矢野彩選手はその目を赤くしながらも取材陣の質問には「落ち着いて演武することが出来ました。自分の中では持っている力を100%出せたと思いますが、まだ未熟、自分を見つめ直しまたゼロから練習します」と凛とした顔で答えた。

 第37回関東学生空手道選手権大会が5月24日、東京・八王子市の帝京大学八王子キャンパスで開催された。山梨学院大学空手部は、この春大学13番目の強化育成クラブに指定され、関東No1を競うこの大会に男女合わせて18人が出場した。このうち、女子形の部決勝は矢野 彩(4年 今治明徳)と紺屋沙也乃(2年 聖カタリナ女子)の山学大同志の対戦となり、前年覇者で全日本学生選手権準優勝の主将矢野彩が4−1で後輩の紺屋沙也乃を下し大会2連覇を果たした。山学勢は決勝トーナメントに男子3人、女子3人が進出するなど形の部で好成績を上げた。元世界チャンピオンで昨年の世界空手東京団体銀メダリストの片田貴士監督は「形の演武は力の抜き差しが大切、各選手が個々のレベルを上げた」と評価した。
優勝した矢野 彩選手は「攻めの精神で行きました、まだまだ納得できない部分はありますが、今の自分の力は100%出せたと思います。6月の全日本学生選手権で優勝できるよう、モチベーションを保って練習を重ねます」ときりっとした顔に笑みを浮かべ日々精進を誓っていた。
6月21日、日本武道館で全日本学生空手道選手権大会が行われました。
この大会は以前行われた関東学生空手道選手権大会で上位の成績を残せた人が出場できる大会です。


2009年6月21日(日)  全日本学生空手道選手権大会  於日本武道館   
山梨学院大学空手部女子個人形で、矢野 彩(4)選手が出場。
決勝トーナメントに進出。
【女子個人形決勝トーナメント】
矢野 彩(山学)vs小林 実希(帝京) 4―1
〜準決勝〜
矢野 彩(山学)vs松谷 知美(青学) 4―1
〜決勝〜
梶川 凛美(関大)vs矢野 彩(山学) 3―2
惜しくも準優勝に終わる。
 
 空手で世界一に!

(スポーツ健康学科)
    横山 万里 (よこやま まり)

  出身校:今治明徳高等学校 → 東亜大学
 

 東亜大学人間科学部スポーツ健康学科2年の横山万里さんが今年4月にデンバー(米国コロラド州)で開催された空手道円心会館世界大会(ワールド・サバキチャレンジ2009)で初優勝し、見事空手世界一の栄冠を手にしました。

 「サバキチャレンジ」とは円心会館がおこなう直接打撃(フルコンタクト)によるトーナメント制の組手試合のこと。円心会館総本部のある米国コロラド州デンバーで年に一度開催される世界大会(ワールド・サバキチャレンジ)は、他流派からの参加も含めて世界中から選手が集い、観客動員数でも全米随一を誇る規模の大会です。

 横山さんが空手を始めたのは小学校1年生の時に道場を見学したことがきっかけで、その後、出身地愛媛県今治市の二つの道場に通い、三瀬先生、山岡先生の指導下で力をつけてきました。今治市立朝倉中学校時代は男子生徒に混じり、野球部で8番ライトのレギュラー選手として活躍し、今治明徳高等学校時代はソフトボール部に所属し、ポジションはファーストで主軸を担っていました。大学進学後は再び空手道に志し、下関に道場がないため福岡の道場に毎週通い続けて腕を磨き、昨年10月の全日本大会で初優勝し、今回出場した世界大会への出場切符を勝ち取りました。
 
 世界一になった感想は「決勝で勝った瞬間は素直に喜びました。この結果が残せたのも林先生(円心会館九州本部長)始め、両親、先輩、友人など、たくさんの人の支えがあってからこそだと感謝しています。ただ試合内容には満足していません。今後はこの大会での反省点を踏まえて稽古に励みたいと思っています」と語っておられました。

 今後の活躍、大いに期待しております。
 頑張れ!!!

       
月原多佳久 (つきはらたかひさ)


  今治市立近見中学校出身

 ・平成5年今治明徳高校卒業、岡山理科大学理学部基礎理学科卒業
 ・岡山大学大学院自然科学研究科修士課程修了
 ・現在京都大学大学院応用生命科学専攻博士課程在籍

  


  −現在何を研究していますか?−

  ダイオキシンを分解する菌の遺伝子を研究しています。自然の中にはダイオキシンに限らず環境ホルモンと
 か有害物質を無害に変化させる菌が存在するんです。それを見つける作業です。
  見つけるといっても山や川から採取するものではありません。顕微鏡を通してしか見えないような極小さな
 キノコの中にある菌です。それにどんな遺伝子操作を加えたら有益な働きをするか実験を繰り返しています。

  −明徳高校での生活の思い出は?−

  将来のことは意識してなかったなぁ。ただ毎日が楽しかったですね。運動会や文化祭のときは友達とはし
 ゃぎ回っていましたし、授業も楽しかったですよ。いえ、授業が楽しかったと言うより、先生と対話するこ
 とが、面白かったです。多くの経験を持った先生が真剣に生徒の問いかけに答えてくれました。あれは良い
 刺激になりました。卒業間際に大学進学を決意したのも一人の先生との対話が切っ掛けでした。  
  不思議なものですね、目標ができるとあれだけ嫌だった勉強も苦にならなくなりました。僕にとって明徳
 での3年間は人生での素晴らしい充電期間でした。多くのユニークな先生たち、得るものは多かったですよ。 
 えっ?後輩に一言?そうですね〜。

  「高校生活を一生懸命楽しめ!」てことかな。
一生懸命楽しんだら、何かが見つかる場所ですよ・・・明徳は。

 
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